聖イグナチオの言葉 編・Fr. 片柳弘史s.j.

2019年1月1日

★自分を捧げる祈り★

「すべてを取ってください。

主よ、受け入れてください。

私のすべての自由、私の記憶も、知性も、意志も。

私にあるものと持っているものすべてを。

あなたがこれらを私に下さったのですが、

主よ、あなたにお返しします。

すべてはあなたのものです。

どうぞ、あなたのお望みのままに計らってください。

あなたの愛と恵みを与えてください。

私にはこの恵みだけで十分です。」

(A,p.162)


◎ 目次

不偏心

克己心

祈り

慰め

荒み

敵の誘惑

清貧

貞潔

従順

イエズス会員

完徳

霊操

識別

活動における観想

十字架上のキリスト

聖イグナチオ

人間関係

信仰生活

勉強

涙の賜物

アカタミエント


◎出典

A『霊操』(改訂版、ホセ・ミゲル・バラ訳、新世社、1992年。)

B『イグナチオ・ロヨラ書簡集』(中村徳子・ヴィセンテ・ボネット訳、イエズス会ペンクラブ、1972年。)

C『ロヨラのイグナチオ その自伝と日記』(A.エバンヘリスタ、佐々木孝訳編、桂書房、1966年。)

D『イエズス会会憲』(中井允訳、イエズス会日本管区、1993年。)

E『イグナチオの日々を見た弟子の覚書』(ルイス・ゴンサルヴェス・ダ・カマラ著、ホセ・ミゲル・バラ訳、新世社、1997年。)

注意

本編は,片柳弘史神父s.j様が,ご自身のために,個人的に書き起こしてまとめられた労作を,ご好意によりいただきました.このため,出典A~Eの著作権等の確認をしていません.

仲間内で読む等だけの用途に限定しています.

一般への配布や販売等,それに準じることはすべてできません.



《不偏心》

・「人間が造られたのは、主なる神を賛美し、敬い、仕えるためであり、こうすることによって、自分の霊魂を救うためである。また、地上の他のものが造られたのは、人間のためであり、人間が造られた目的を達成する上で、人間に助けとなるためである。従って人間は、そのものが自分の目的に助けとなる限り、それを使用すべきであり、妨げとなる限り、それから離れるべきである。」(A,p.51)

・「創造主がご自分の被造物により確実に働けるため、もしその霊魂が適度を欠いて何かに愛着し傾いているならば、全力を尽くして悪い愛着と逆の方向へ心を向けるのは、非常に有益である。…あれよりもこれを望んだり持ち続けたりする理由は、主なる神への奉仕と誉れと栄光だけでなければならない。」(A,p.39)

・「イエズス会士が、自己意思を放棄し、自分に与えられる一切の命令に対する不偏心・無執着な心を持っていることを望んでおられます。師父はこれを普通、まったく老人の思い通りに動かされるままになる老人の杖とか、どこへでも少しもいやがらずに運ばれていく死体、という言葉で言い表されます。」(B,p.111)

・「自分は信・望・愛の三つの徳を得たいと望んでいる。もし自分に同伴者があったら、空腹のときにはその人に助けてもらえると思い、倒れれば、その人が手伝って起こしてくれると思うであろう。こんなふうではその人を頼り、そのため、この人に愛着を感ずる結果になるかもしれない。しかし、そういう信頼とか、愛情とか、希望とかは、ただ、神に対してだけ持ちたい。」(C,p.64)


《克己心》

・「克己心と自己否定がある学生なら、一時間の祈りで足りる。このことについては、何を言われてもわたしの態度は絶対に変わらない。十五分の祈りをした克己心のある人は、克己心を持っているからこそ、祈りに二時間をささげた克己心のない人よりも長く祈ったと思う。」(p.210)

・「ある日の思い出であるが、父がよく知っている優れた修道者について二人で話していた。わたしが『すぐれた祈りの人間だ』と彼を誉めたら、父は『すぐれた克己心を持つ人間だ』といい直した。この言葉から、父の行動様式の全容がいっさい明らかに見えると思う。」(E,p.166)

・「本会にいる貴族と学者の克己心はいつも念入りに鍛えなければならない。彼らが徳にすぐれた人物なら、大いに神に仕えるだろうが、そうでなければ、多くの害悪を撒き散らす元凶になる。」(E,p.243)

・「師父は、断食・大斎・鞭打ち・苦行鎖などのように肉体を弱める苦行よりも、名誉欲と自尊心を棄てる克己を一段と高く評価し、希望されます。」(B,p.110)


《祈り》

・「私を憂鬱に落とし入れるようなものとははたして何であろうかと考えてみたら、一つしか見当たらなかった。それは、教皇が本会をすべて解散させるということである。しかし、万一そのようなことがあっても、祈りに入って十五分ほどで心を鎮めることができれば、前と同様に、いやそれ以上に気分がよくなるだろう。」(E,p.158)

・「彼は、神を目の当たりにしているだけでなく、体の目で神を見ているとの印象を与える。」(E,p.159)

・「本当に自己否定を持つ人なら、祈りの中で神に一致するには十五分で足りる」「祈りに長時間没頭する百人のうち、九十人は錯覚に陥っている」(E,p.167)

・「わが主は、ご自分の内的恵みや賜物を心の中に与えることができるし、普段はそのようになさる。悪霊の場合なら、外面においてでなければ何もできない。」(E,p.168)

・「私たちの方にそれなりの用意ができてさえいれば、主なる神はいつでも恵みを与えようとしておられることは確実なことなのです。それには、私たちが謙虚な器となり、神の恵みをいただきたいと望み、いただいた賜物を無駄にせずに生かし、うまずたゆまず恵みを祈り求めていなければなりません。」(B,完徳の手紙・p.40)


《慰め》

・「霊魂の内に内的な動きが引き起こされ、それで霊魂が創造主への愛に燃え上がり、もはや地上のいかなる被造物もそれ自体においてではなく、万物の創造主においてのみそれらを愛することができる状態を慰めという。」(A,p.232)

・「もし慰めをいただくなら自己を卑下し、へりくだり、やがて誘惑で試みられることを思うべきです。もし誘惑や暗闇に襲われ悲嘆にくれるなら、それほどくよくよせずに、忍耐強く主の慰めを待つべきです。この慰めが心の動揺をすっかり静め、暗闇を追い払うにちがいありません。」(B,p.17)

・「たびたび起こることですが、主は私たちの心を開き、私たちを強いてあれこれの行為に促されます。つまり、主は魂の内部で声なく語りかけ、魂全体を神の愛に高めてくださり、私たちは逆らおうにも逆らえずに、神を感じとる悟りにまで高められるのです。」(B,p.18)

・「賜物とは、深い信仰、希望、愛、霊的な歓喜と休息、涙、深い慰め、精神の高揚、神の刻印と照らし、およびこれらの賜物に向けられた他のすべての霊的な味わいと感覚、わたしたちの聖なる母である教会と教会のうちに立てられた指導者・教師たちに対する謙虚さと尊敬です。…私は、これらの賜物の与える快感や楽しみのためだけから、これらを求めるべきだと申すのではありません。これらの賜物に欠ければ、私たちの思い・言葉・行いはすべて不純な、冷たい、濁ったものになり、それを恵まれれば、すべては暖かく、澄んだ、神によりよく奉仕するものとなることを承知しているからでもあります。」(B,p.86)

・「ますます善の道に進んでいく人には、善天使は優しく、軽く、柔らかく、しずくが海綿に入るようにその霊魂に触れる。そして悪天使は、鋭く、さわがしく、不安を起こし、しずくが石の上に落ちるように触れる。」(A,p.242)

・「世俗的なことは、これを考えている間は、大きな楽しみを感じたが、それにあきて止めてしまうと、うら寂しい感じがして不満が襲ってきた。ところが、はだしでエルサレムに巡礼するとか、野菜のほかは何も食べないとか、聖人伝で見たいろいろな苦業をしようと思ったりすると、それを考えている間、慰めを覚えるばかりでなく、考えを止めた後までも満足感や喜びが残った。…こうして少しずつではあったが、自分を動かす神と悪魔の二つの霊をわきまえるようになった。」(C,p.43)

・「当時一番慰めを覚えたのは、空を仰ぎ、星を見つめることであった。これによって主に仕えようという気力が非常に強く自分の内に感じられるので、たびたびこれを実行し、そのつどかなり長い時間をついやした。」(C,p.45)

・「こうしてそこに座っていると、理性の目が開け始めた。しかし、このときは、示現を見たのではなく、霊的なこと、信仰及び学問に関する多くの問題を理解し、悟った。これによって非常に明るく照らされたので、すべてが新しく感じられた。」(C,p.61)

・「ある日、ローマへ着く前、数キロはなれたある教会で祈っていると、心の中に深い感動を覚え、同時に父なる神が自分をおん子キリストと一緒に置いてくださるのを見た。実際、父なる神がそのとき、かれをおん子と一緒に置かれたことは疑う余地のないほど明らかであった。」(C,p.115)

・「ミサ中ほとんど、また、準備のときもミサの後にも、おん父のみまえでわたくしに対し、非常に情け深い態度をとっておられる聖母を見、また、それを深く感じていた。それで、おん父やおん子に対する祈願のとき、また、聖変化のときにもわたくしが魂の内部に感じた多くの恵みの原因、または門戸として聖母を感じ、また見ずには入られなかった。聖変化のときに聖母はご自分のおん肉がおん子の身からだの中にあることを、書きあらわし難い多くの霊的知識によってわたくしに悟らせてくださった。」(C,p.200)

・「至聖三位一体について多くの知識をいただき、それによって理性がてらされたのだが、おそらくいかに勉強しても、これほどの知識を得ることはありえないと思われた。後は感じたり、見て理解したことについて、より深く反省したが、たとえ一生勉強し続けたとしても、このときわかった以上にわかることはできないだろうと思った。」(C,p.206)

・「きょう町を歩いていたときにも、深い内的喜びを覚え、たびたび三人の姿、あるいは三匹の動物、または、三つの者などの形をとって三位一体が現れた。」(C,p.207)

・「どのペルソナから慰めを覚える際でも、その慰めを三位に帰し、それが三位からのものであるとわかったのでうれしかった。この難問を解いたのに驚き、わたくしの分には過ぎたことのように思えたので、『おまえはだれか、どこからのものか、おまえは、この恵みに値するのか。どうして受けたのか』などと独りごとを言った。」(C,p.209)

・「特に御聖体を手に持っていたとき、心の内部の激しい動きを感じ『全天国、全世界とひきかえてやると言われても、わたくしは決してイエズスから離れない』などの言葉が浮かび、さらに新しい感動と信心と霊的喜びを覚えた。」(C,p.210)

・「イエズスを見、感じ、激しい愛に燃えていたので、これからはもう、わたくしをイエズスから遠ざけたり、受けた恵みや確証について疑いを起こさせたりするものは、あり得ないと思ったほどである。」(C,p.212)

・「ミサのとき、『生ける神のおん子、主イエズス・キリスト』などの祈願を唱える間、前には、イエズスの白い姿、すなわち、その人性を見たが、今はイエズスを違う方法で霊のうちに感じた。それは、ただ、イエズスの人性だけでなく、わたくしの神である全きイエズスを感じたのである。」(C,p.215)

・「わたくしは恐れるところなく、他の者とともに生きるよりもイエズスとともに死することを望み、それを対話のうちに語った。」(C,p.217)

・「イエズスに向かって、『主よ、わたくしはどこへ行くのでしょうか。いずこへ。わが主よ、あなたに従っていれば迷うことはあり得ません』と申し上げた。」(C,p.222)

・「 “Te igitur”を唱えるとき、不明瞭にではなく、明るく、極めて明瞭に球の形で神の実在、あるいは本質そのものを感じ、また見た。その大きさは、太陽よりも少し大きく、その本質からおん父が出、あるいは流れているように見えた。」(C,p.224)

・「内的話を深く味わっていると、天的な話、あるいは音楽が思いおこされ、聴いた話はそれに似ていると感じた。それで、神的な事柄を感じ、体験しているのであると悟り、涙とともに信心や愛情が増してきた。」(C,p.244)


《荒み》

・「たとえば、霊的な暗さとか乱れ、卑しく現世的なものへの動き、不信へと駆り立てる種々の乱れや誘惑からの不安、希望も愛もなく、霊魂がすっかりものうく、なまぬるく、もの悲しくなってしまい、創造主から切り離されたように感じるのを荒みという。」(A,p.233)

・「荒みのときは、絶対にことを変更してはならない。かえって、その荒みに先立つ日の決定や決心、または、その前の慰めのうちの決心を堅固にゆるぎなく守るべきである。」(A,p.233)


《敵の誘惑》

・「邪念、みだらな官能的な思い、卑怯とかなまぬるい考えは、意に反して起こるものなら気にやんではなりません。というのは、こうした思いが全然か、またはいくらかでも湧いてこないというようなことは、聖ペトロや聖パウロでさえ、決してありえないことだったからです。しかし、こんな雑念は少しも気にかけなければ、完全に消え去ってしまうとまではゆかなくても、だいぶ少なくなります。」(B,p.23)

・「第一の段階は富の段階であり、第二は名誉、第三は高慢の段階であるが、この三つの段階からルシファーは他のあらゆる悪徳に人を誘い入れるのである。」(A,p.109)

・「霊的なことに精進する人が種々の誘惑に真っ向から抵抗して、誘われるところと正反対の行動をとるならば、敵は弱くなり、勇気を失い、誘惑もやめてしまうのが常である。反対に、精進する人の方が恐くなり、誘惑に耐える勇気を失い始めるならば、増大する悪意から自分のよこしまな意図を遂げようとする人間の敵ほどたけだけしい野獣は地上のどこにもいないであろう。」(A,p.237)

・「人間の敵も、自分のごまかしやそそのかしを善良な霊魂に向けてくる時、霊魂がそれを内密に受け止め、内証にするよう欲し、望むのである。しかし、その人が良い聴罪司祭、またはそのごまかしや悪だくみをよく知り、霊的なことがらに通じている他の人にそれを打ち明けるならば、人間の敵はひどく不機嫌になる。なぜなら、自分のごまかしが暴露されて明らかになると、取りかかった悪行が首尾よく行かないだろうと察するからである。」(A,p.238)

・「光の天使に変装する悪天使の特徴は、初め信心深い霊魂にくみし、遂には自分の思いのままにするということである。すなわち、正しい霊魂に似合った良い考え、聖なる考えばかりを持ってくるが、後で、次第にそこから離れ、自分の隠された悪だくみと邪念へ霊魂を引き寄せようと努める。」(A,p.240)

・「もし敵がわたしたちを祭り上げるなら、自分の罪とみじめさを数え上げて自己を卑下し、もし敵が私たちを低めて押さえつけるなら、いただいた恵みを列挙して、主がどれほどの愛と熱望をもって私たちを救おうと思し召しておられるかを考え、主への信仰と希望のうちに自分を高めるべきです。敵は、真実を語るか偽りを語るかは眼中になく、もっぱらわたしたちを打ち負かそうとしているのです。」(B,p.14)

・「敵は、ある人がゆるんだ良心を持ち、罪を罪と気づかずにただなんとなく犯しているのを見つけると、その人に小罪を無罪、大罪を小罪、重い罪を軽い罪と思い込ませようと腕を振るいます。こうして敵はわたしたちの欠点、つまりゆるみすぎた良心をもっていることに目をつけて利用するのです。」(B,p.15)

・「わたしたちはしばしば、わけもわからずに悲しみに沈められ、全然信心をこめて祈ることができず、主なる神にかかわることを内的に味わい楽しみながら観想したり、語ったり、聞いたりすることが、まるっきりできなくなります。そればかりか、敵は私たちが弱腰で、こうした有害無益な考えでやり込められているとみるや、自分は主なる神からすっかり忘れられてしまったのだ、という気持ちにさせます。そして、自分が主からまったく離れてしまっているとか、これまでしてきたことも、これからしようとすることも、なにもかも無駄骨だと思いつめさせます。こうして敵は、なにごとにも不信感をいだかせようとはかるのです。このようにわたしたちがおじけて弱気になってしまう結果、私たちはこの時期にあまり自分のみじめさに目を注ぎすぎて、敵の欺きの暗示にかかり、卑屈に引きずり回されてしまいます。」(B,p.17)

・「小罪を犯すのは、大罪を犯そうという思いが浮かんだ時、少しでもそこにとどまり、またはそこから何らかの感覚的楽しみを受け、その思いに耳を貸したりする時のことである。その思いを退けることを怠った場合も、小罪を犯すことになる。」(A,p.56)

・「大罪に大罪を重ねている人の場合、さらにその悪徳と罪を続けさせ増大させるため、敵は快楽を目の前に浮かべさせ、感覚的な楽しみや快楽を想像させるのが常である。同じ人の場合、善霊は反対に善悪の判断力を通して良心を刺し、呵責を感じさせるのである。」(A,p.231)

・「軍の隊長と首領が陣を張り、城の兵力とその配置を見て、一番弱いところから攻撃するように、人間の敵も私たちを巡って、対神徳、枢要徳、倫理徳を順次うかがい、永遠の救いのためもっとも弱くもっとも手薄と気づいたところから私たちを攻撃し、征服しようとするのである。」(A,p.238)

・「敵が引き起こす悲しみと不安をことごとく取り去って、真の喜びと霊的な歓喜を与えることが神と天使の霊動における特徴である。敵の特徴は、もっともらしい理由、へりくつとたえまない欺瞞をつかって、その喜びと霊的慰めを妨げることである。」(A,p.239)

・「それは、まるで魂の内部で『お前は残る七十年の寿命をどうやってこのような生活に耐えて行けるのか』とささやきかけるようであった。しかし、これに対しては、悪魔のささやきに違いないと感じ、きっぱりと、『あわれなやつめ、おまえはわたくしにただの一時間も生き続けることを約束できるか』と答えて、この誘惑にうちかち、平静な心に戻ることができた。」(C,p.54)

・「誘惑者は、実際はわたくしを迷わせなかったが、しかし、何らかの疑いをいだかせようとした。しかし、わたしは、少しも騒がず、むしろ落ち着いて、すでにその誘惑に打ち克ったかのごとく振る舞い、『引き下がれ!』と答えた。」(C,p.233)


《清貧》

・「『主は貧しい者の祈りを聞かれます』から、貧しさは神を敬う祈りをききめのあるものにし、すべての重荷から自由になった旅人のように、徳の道をすばやく進ませ、『あらゆることが金銭に従い仕えている』この世の有力者たちへの隷属から人間を解放します。そして、魂は地上の物事への愛着がなくなればなくなるほど神とその賜物とに満たされるものですから、もし貧しさが心の貧しさであるなら、魂はすべての徳で満たされます。」(B,p.77)

・「私たちが実際の貧しさをいとい、反感や嫌悪を感じる時、すなわち、貧しさや富に対して不偏心がない時には、その乱れた愛着を取り除くために対話において次のことを主に願うのは、極めて役立つことである。すなわち主が実際の貧しさに自分をお選び下さるよう願い、全善なる神への奉仕と賛美になりさえすれば、自分がその恵みを望み、嘆願し、こい願っていることを主に申し上げるべきである。」(A,p.115)

・「祭壇の準備をしているとき、イエズスを思い出し、イエズスに従う望みがわいてきた。イエズスはわたくしたちの会のかしらであるから、完全な清貧の生活を送るためには、人間が考える他のどんな理由よりも、これこそ最高の理由になると心の中で思った。」(C,p.210)

・「いささかも貪欲のけがれに染まることなく、福音的清貧に徹して生きることは、いっそう大きな喜びに満ちた生活、純粋な生活であり、隣人へのよい影響のためにもいっそうふさわしいものであることを私たちは経験している。」(D,p.15)

・「この会にとどまろうとする者は、衣食住、飲料、履物としては、貧しい人びとにふさわしいものを用いる。各自は克己の精神をいっそう深め、霊的に進歩するため、また会員が同じ基準に従って平等に生活するため、家の中にある最も粗末なものを使うことが役立つと確信していることが必要である。初代会員は、このような困窮と欠乏の生活を送ったのである。」(D,p.38)

・「すべての者は清貧を母のように愛し、機会が与えられたときは聖なる分別が示すところに従って、その結果の一端を味わうことが必要である。」(D,p.99)

・「無償で受けたものは無償で与えるというのが私たちの行動様式であり、この行動様式に対する誠実さを傷つけるような義務を受け取ったり、とりきめをしたりすることがあってはならない。」(D,p.128)

・「会員は修道生活を堅固な防壁として清貧を愛し、神の恵みによって可能な限り、それを純粋な形で守らなければならない。ふつう人類の敵は、神が修道会を促して、これらの敵や修道者の完全さに反対する者に対して作られるこの防壁を弱めるため、創立者が賢明に定めたことを、創立の精神と合致しない注解や改変によって変更しようと図るのである。」(D,p.170)

・「この会の従順のもとに生活するすべての会員は、無償で受けたものは無償で分け与えるべきことを忘れてはならない。」(D,p.173)

・「会員は家の中で、いかなるものをも私有物として持ってはならない。…余分なものは持つことなく、必要なもの、有用なものは、会の共有物の中から与えられるもので満足していなければならない。」(D,p.178)


《貞潔》

・「貞潔の誓願に関しては説明を要しない。心と体の清さにおいて天使的な純潔に従おうと努め、この誓願を完全に守るべきことは明らかである。」(D,p.167)

・「ある夜のことだが、目をさましていると、幼きイエズスを抱いた聖母の姿がくっきりと目の前に現れた。この示現と共に、かなり長い間、言い知れぬ大きな慰めを覚えた。そして同時に、過去の生活全体、ことに肉欲に対して非常な嫌悪を覚えたので、それまで霊魂に描かれてあったすべての影像が取り除かれたように思われた。こうして、その時以来、この自伝を記している1553年8月に至るまで、かれは肉の誘惑にわずかの承諾も決して与えたことはなかった。」(C,p.44)


《従順》

・「最高善なる神は、私たちが自己意思から空虚になればなるほど、私たちの心を満たされるのです。」(B,p.66)

・「わたしはまず、意志も判断力もない死体のようなものでなければならない。第二に、全く抵抗せずにあちこちへ引き回される小さな十字架のようになるべきである。第三に、老人が手に取った杖のような物と自分をみなし、彼が望む場所に、特に役立つ場所に私を置くことができるように心がけなければならない。同様に私は、命じられたすべてにおいて修道会が私を用いることができるように、心を整えておくべきである。」(E,聖イグナチオによる従順の遺言・p.107)

・「意思の従順があっても、判断の従順が伴わない会員は、本会の中に足を一本しか入れていない。」(E,p.217)

・「あなたがたは、なまぬるさと無分別な熱心という両極端の中道を歩むために、自分にかかわることを長上に打ち明け、あくまで従順を守ってください。」(B, 完徳の手紙・p.53)

・「従順によって生きる人は、迷いと疑いから解き放たれるだけでなく、自己意思と一身上の配慮といういちばん重い荷をおろして、それを長上の肩に負わせますから、自分はほっと一息ついて平和でいられます。長上から離れずに、従順のうちに生活しているにもかかわらず、この安心感を得られない人は、それはいったん長上に一身をゆだねたのちに、またもや自分自身のことについてあれこれ差し出口をするからで、自分のせいではないかと反省してみてください。そして、このような人にあててベルナルドがのべていることに耳を傾けてください。『あなたがたは、ひとたび自分自身にかかわるすべての事柄への配慮を私に任せておきながら、どうしていまさらそれに干渉するのですか。』」(B,p.65)

・「本会の会員は学のある人々であり、教皇・司教がたに派遣されて、長上の住む会宅を遠く離れた地域に分散しており、要職にある人々と接するとか、その他多くの原因があるだけに、従順が抜群でなければかれらが統率されることはありえないからです。したがって、このきわめてよく従順を実行すること以上に、イエズス会の共通善にとってより適切で、より必要な実践はひとつもないと、私は考えております。」(B,p.68)

・「もし命ぜられることの実行と実行したいと望む意思だけで満足し、聖なる従順のもとに自己判断を屈服させて実行すべきであると判断しないならば、その目下の従順は不完全であるとみなしておられます。」(B,p.110)

・「他の修道会がそれぞれの会則に従って、尊くも守っておられる断食・大斎、徹夜の祈り、その他の厳しい苦行の点では、私たちは一歩譲ってもかまいません。しかし、自己意思と自己判断を放棄する従順の完全無欠さの点では、親愛なる兄弟の皆さん、このイエズス会にあって主なる神に奉仕する人々が抜群であること、また、この従順の完全さによって彼らがまことのイエズス会士と認められること、すなわち、自分の従っている長上のうちに決して人間を見ることなく、その人のうちに主キリストを見て、キリストのために従う者であることを切望してやみません。」(B,従順の書簡・p.122)

・「長上は、きわめて賢明であるからでも、きわめて善良であるからでも、主なる神からなにかそれ以外の賜物を豊かに恵まれているからでもなく、ただ主なる神の代理人であり、その権威を受けている者ですから、彼に従わなければならないのです。」(B,同上・p.123)

・「実際に命令を実行するだけでなく、欲するのも欲しないのもまったく長上と同じである、というほどの意思の一致もなければなりません。…この意思は人間の有するものの中できわめて価値の高いものですから、従順によって主なる創造主にこの意思を奉献するいけにえにも高い価値があります。」(B,同上・p.125)

・「あなたがたに自由意志を与えられた神に従順によって完全にそれをお返しできることは、自由意志のとるに足りない行為であると思ってはなりません。こうすることによって、あなたがたは自由意志を失うことはなく、かえってそれを完成します。」(B,同上・p.126)

・「目下の者が自分のしたいことに長上を引っ張ろうと努めておきながら、従順を守っていると考えるのは、利己心で知性を暗まされた人々のはなはだしい誤りです。」(B,同上・p.127)

・「長上と同一の意思を持つだけでなく、神に捧げられた意思が知性を傾かせることができるかぎり、長上の判断に自分の判断を服させて、長上と同一の見解をもたなければなりません。」(B,同上・p.127)

・「まことに従順は一つの全焼のいけにえであり、これによって人間全体がすべて、余すところなく、主の代理を通して、主なる創造主に愛徳の火の中でささげつくされるのです。また従順は、長上を通して神の摂理のままに導かれる者となることによって、自分の一切を離脱する完全な自己放棄でもあります。」(B,同上・p.128)

・「他の人間的な事柄においてさえ、賢者は一様に、とくに自分にかかわることについて、自分の賢明さにたよらないことが真の賢明であると考えています。人間は自分自身のことについては、欲情のためによい判定者となれないのが普通だからです。」(B,同上・p.129)

・「従う人の心にある平和と静けさを求めても、魂のうちに騒々しさと不安の種をいだいている人は、それを手に入れることは決してできないでしょう。」(B,同上・p.131)

・「どうか柔和・謙遜であるようにしてください。そうすれば、主なる神は恩恵を与えられ、皆さんが行った従順の奉献を、いつも快くささげ続けさせて下さるに違いありません。」(B,同上・p.132)

・「すべてにおいて正しくあるためには、自分に白と見えるものが、位階制度基づく教会によって黒と定められるならば、私も黒だと信じる態度を常に取らなければならない。」(A,p.255)

・「私たちが行う誓約は、過ぎ去るこの地上の生活において報いを求めず、また、期待することなく、神の限りない憐れみによりたのんで、つねに、永遠のいのちを希望し、主において命じられたときは、いつ、いかなることであっても引き受ける準備と心構えができていることを求めている。」(D,p.39)

・「命じているのが炊事係であるか、長上であるか、あるいは、この人であるかあの人であるかを問題にすべきではない。従順はこれらの人びとに対してなされるのではなく、また、これらの人びとのためになされるのでもない。ただ創造主である神に対して、神のためだけになされるのである。」(D,p.39)

・「従順のもとに生活する者は、どこへ運ばれ、どのように扱われても、すべて意のとおりになる屍のように、また、どのような場所でも、どのようなことにでも持ち主の意のままに使われる老人の杖のように、長上を通して表れる神の摂理に導かれ、支配されるべきことを心しておかなければならない。」(D,p.168)


《イエズス会員》

・「私は、ただ自分自身の救いのために入会しようとする人を本会には望まない。会員は皆、自分を救うと共に、他の人の救いになるような人物でなければならない。」(E,p.141)

・「父の主張は、…自分個人の完徳を求める一方、よい模範を示しつつ本会内外の他の人の助けになる人だけが本会に認められるべきだ、という点にあった。」(E,p.141)

・「あなたがたは、ただ一般的な目標をかかげるだけでなく、全生涯と全活動をことごとくこの目的、つまり神の栄光と隣人の救いとにささげて、自分を絶え間ない奉献としなければならないこのイエズス会に神から召し出されたのです。」(B, 完徳の手紙・p.42)

・「まず、ベネチアに行き、そこからエルサレムに行くこと、およびそこで、自分たちの生涯を、人びとの霊的指導にささげること、もしもエルサレムに永住することが許されない場合には、ローマに引き返し、キリストの代理者である教皇に謁見し、より大きな神の栄光と霊魂の利益のために役立つと思われるところへ、自分たちを遣わしてくださるよう要請すること。」(C,p.106)

・「イエスの名の刻印を帯びることを切に望むこの会において、十字架の旗のもとで神のために戦い、地上におけるキリストの代理者であるローマ教皇のもとで、主とその花嫁である教会だけに仕えようと望む者は、生涯の誓いとして貞潔、清貧、従順の盛式誓願をたてたのちは、自己が次に述べるような会の一員になったことを心にとどめていなければならない。」(D,p.13)

・「神の勧めによって、ひとたびイエス・キリストの軍団に名を連ねたうえは、昼夜を問わず『腰に帯して』この責務を果たす心構えが必要である。」(D,p.15)

・「この会の目的は神の恵みによって、ただ自己の霊魂の救いと完成に意をそそぐだけではなく、同じ神の恵みにより、熱意をもって隣人の救いと完成のために図ることである。」(D,p.19)

・「この会の会員は、教皇または自己の長上によって遣わされるならば、いかなるときにも、また世界のいずれの場所へも赴く備えができていなければならない。したがって、小教区付き司祭としての霊魂の世話、また、なおのこと、通常聴罪司祭あるいは指導司祭として修道女その他のいかなる女性の世話をも担当すべきではない。」(D,p.179)

・「できる限り、いかなる人をも傷つけることなく、主においてすべての人に仕えるのが、わたしたちの基本精神である。」(D,p.180)

・「時の教皇への明白な誓願と、清貧、貞潔、従順の3つの本質的な誓願以外、会憲、注解、生活規定のいかなるものも、反すれば大罪、小罪のいずれかを犯すような義務としては課されていない。」(D,p.183)

・「この会のすべての会員は、一般的にいって、堅固で完全な善徳および霊的なことがらに身を打ち込むよう心がけていることが必要であり、それらのものを学識その他の自然的、人間的な賜物以上に尊重していなければならない。外的なことがらを私たちが目指す目的のために役立つものとするのは、これら内的なことがらである。」(D,p.249)

・「この会をつねに良好な状態で保つためには、どのような共同体や修道会にとってもすべての悪の母となる野心をできる限り注意深く排除することは極めて大切である。このことは、直接であると間接であるとを問わず、この会におけるすべての顕職や高位聖職を求める道を閉ざすことによって守られる。」(D,p.251)


《完徳》

・「それぞれ自分を激励するために、いい加減のところで満足しているような人ではなく、いちばん猛烈な努力家を模範にしてください。あなたがたが永遠なものを求めるよりもさらに勤勉に、命がけで、この世の子らが地上の一時的なものを追い求めるなどということを、平然と見過ごしてはなりません。あなたが永遠の生命に向かって行くよりもずっと足早に、かれらが死に向かって走ってゆくのを恥ずかしく思いなさい。」(B, 完徳の手紙・p.43)

・「第一、愛は言葉よりも行いによって示すべきである。

 第二、愛は両者の間の交換にある。すなわち、愛する人が持つものを、または持つものと自分に可能なものから愛される人に分け与え、一方、愛される人も、愛する人に対して同じくするところに愛がある。」(A,p.160)

・「善徳に満たされていればいるほど、それだけ他の人びとを徳に引き寄せることが一段と効果的にできるのであるから、あらゆる悪から身を守り、できるだけすべての徳を身につけるよう、糾明、祈り、秘跡拝領などのために、毎日いくらか自分の時間をとっておくべきである。」(B,p.116)

・「主は、私たちをあがなうために売られることを、私たちに名誉をあたえるために辱められることを、私たちを富ませるために貧しくなることを望まれ、ついに私たちに不滅の幸いな生命を与えるために、あのような屈辱と苦悩に満ちた死を選ばれたのです。それにもかかわらず、イエズス・キリストに懸命に仕え、その誉れのために努める義務を身にしみて感じない者は、ああ、なんと恩知らずな、わからずやなのでしょう。」(B, 完徳の手紙・p.48)

・「どうか皆さん、イエズス・キリストに誉れを帰し、隣人に救いをもたらす義務がどれほど大きいかをよくよく考えてみてください。そうすれば、そのために神の恩恵のふさわしい道具となるよう一生懸命に努力して準備することが、どんなに当然であるかを痛感されるに違いありません。」(B, 完徳の手紙・p.49)

・「第一は、富に対する貧しさの段階であり、第二は、世の名誉に対する辱めやさげすみ、第三は、高慢に対する謙遜の段階である。そして、この三つの段階からキリストは他のあらゆる善徳に人を導くよう勧められる。」(A,p.111)

・「霊的生活に進歩を望む霊魂は、いつも敵とは反対に行うべきである。すなわち、敵が霊魂を一層鈍感にしたいのなら、一層敏感になろうとし、同様に敵が霊魂に極端な立場を取らせるため霊魂を一層敏感にしようとするなら、霊魂は、すべてにおいて平静になるため中庸をしっかりと守るように努めるべきである。」(A,p.249)

・「まだ盲目ではあったが、しかし力の限り主に仕えようと切望していたこの霊魂を、主がどのように取り扱ってくださったかをはっきりさせるためには、この道すがらかれに起こった事件を記すのがよいだろう。」(C,p.48)

・「主よ、わたくしをお助けください。もはや、人間にも、他の被造物のうちにも助けとなるものは見当たりません。助けが得られるなら、どんな苦労をもいといません。主よ、どこに助けを見出せるかお示しください。もし、小犬のあとに従って、小犬から助けをもらうのが必要であれば、それでもいたします。」(C,p.57)

・「今日、ある婦人が、捕らえられたわたくしを見て、同情の言葉を述べましたが、その際、わたくしが彼女に言った通り、あなたにもお答えしましょう。〈そうおっしゃるのはあなたが神への愛のために捕らわれの身となりたくないということを示しています。あなたにとっては監獄がそれほどひどい所ですか。わたくしにとって、神への愛のために掛けてもらいたいと思うこれほどの鎖や手錠は、サラマンカ中でもそんなにありません。〉と」(C,p.95)

・「ミサの準備の祈りの前に、信心が新たにされ、ミサを立てる務めを果たすには、天使のように生活しなければならないという考えが浮かび、そして静かに目ににじむものがあった。」(C,p.230)

・「神の訪れをいただくため、ミサ聖祭の間だけでなく、一日中、正しく歩まねばならない。」(C,p.240)

・「深い謙遜と忍耐を示し、訪れる人、ことばを交わす人、接する人びとに対し、病気のときは健康のときに劣らずよい影響を与え、神の栄光となるように心がけていなければならない。」(D,p.40)

・「世が愛し、抱くものは、いかなるものであっても、その一部ではなく、すべてを忌み嫌い、かえって、主キリストが愛し、抱かれたものを、力を尽くして受け入れ、求めることは、霊的生活にとり極めて大きな助けと利益になる。世に従って生きる現世的な人物が、世の教えるところに従い、大きな熱意をもって、名誉、名声、世人からの評価を愛し求めているように、霊のうちに歩み、真心からキリストに従う者は全く反対のこと、すなわち主に対してもつべき愛と尊敬ゆえに、主と同じ衣服、主によって定められた衣服を身に帯びることを深く愛し、また望むのである。しかも、神に背かず、隣人にとって罪とならない限り、侮辱、偽証、はずかしめを受け、愚者として取り扱われることを望む。」(D,p.44)

・「あらゆる情念を制御し、克服して自由となった者であり、内面の生活においては理性の判断が乱されることなく、外に表れる生活、とくに話す際には彼を鑑とも模範ともすべき会員や外部の人びとに対して悪い影響を与えるようなことばその他を見つけることができないほどの落ちつきをもっていることが必要である。」(D,p.227)


《霊操》

・「自分自身に打ち克ち、いかなる乱れた愛着にも左右されることなく生活を整えるための霊操」(A,p.45)

・「霊操を行うことから最も大なる益を得るのは、生路をまだ決めていない人の場合である。なぜなら、その時霊魂に触れる霊がいっそう多くなるからである。同じ理由で、誘惑に悩んでいる人の場合にも霊操は相当有益である。」(E,p.209)

・「最初期の司祭たちは皆、世間から離れて厳格に霊操を行っていた。最小限の断食で済ます会員でも、全く飲まず食べずに3日間過ごしていた。」(E,p.250)

・「霊魂を準備し整えるあらゆる方法を霊操というのである。その目的は、まず、乱れたあらゆる愛着を棄てることであり、その後、霊魂のたすかりのために、自分の生活を整えることについて神のみ旨を探し、確かめることである。」(A,p.31)

・「霊操を受ける人には、自己の創造主に対する雄々しい心と惜しみない態度で霊操に入るのが大きな助けとなる。」(A,p.34)

・「霊操者は荒みに抵抗し、誘惑に打ち克つため、祈りを常にまる一時間より少し余分にしなければならない。そうすることによって、敵に抵抗するだけでなく、敵を打ち倒す心を養っていけるであろう。」(A,p.37)

・「霊操を与える人は、どちらかに偏りも傾きもせず、均衡のとれたはかりの針のように真中に立ち、創造主が直接に被造物に働きかけ、被造物が直接に創造主に接するままにしておかなければならない。」(A,Ap.39)

・「適当な手段を定め、友人や知人、および世間への心遣いから完全に遠ざかれば遠ざかる程、霊操からいっそう益を収めるであろう。」(A,p.43)

・「霊魂が独りとなり、用事から離れた生活になると、それだけ創造主に近づき、主に結ばれるのにふさわしくなるのである。そして、このように神と一致すればするほど、神の限りない慈しみから種々の恵みと賜物を受けるためのよりよい準備ができるのである。」(A,p.44)

・「霊操を終えた後、十五分間腰掛けるなり、歩くなりして、観想か黙想がどのようにいったかを反省する。よくいかなかった場合、その原因を調べ、調べた上で、今後それをよくしていくため心を改める。よくいった場合には、主なる神に感謝し、次の霊操にも同じ方法を使う。」(A,p.78)

・「霊操者は、望んでいるものを見出す上で益とも助けともなりうると感じる程度に応じ、暗さか明るさを保ち、心地よい温度、または不快な温度を用いるよう留意すべきである。」(A,p.104)

・「霊操は自らが経験したのち、他者に与えるのに習熟することが必要である。また各人は霊操を与えることができなければならず、明らかに主なる神が、ご自身への奉仕のために極めて効果的なものとされたこの武具を用いる道を身につけていなければならない。」(D,p.130)


《識別》

・「彼が望み求めるべきことは、すべてにおいて、またすべてを通して主なる神へのより大いなる賛美と栄光だけである。というのは、人は誰しも自愛心、我意、利己心から離れれば離れるほど、あらゆる霊的なことがらにおいて進歩すると考えるべきだからである。」(A,p.132)

・「主なる神によりよく仕えることができるという望みだけが何かを受けさせ、または手放させる動機となる。」(A,p.115)

・「もし主なる神の栄光と賛美が同じであるならば、わが主キリストに一層誠実に倣い、似た者になるため、貧しいキリストと共に富よりも貧しさを、侮辱に飽かされたキリストと共に名誉よりも侮辱を望み、この世の学者、賢者とみなされたい望みよりも、かって愚者、狂人とみなされたキリストのために、愚者、狂人とみなされるこしとを望み、選ぶのである。」(A,p.121)

・「望むことはただ一つ、わが主なる神が自分の心に置かれるところに応じて、また主なる神への奉仕と賛美のためにその人にとってよりよいと思われるところに従って、そのものを持ちたいと望むか、または望まないということである。」(A,p.115)

・「よい選定をするにはいつでも、私たちの意図がひたすら一つのことだけを目指し、私が造られた目的、すなわち、主なる神への賛美と自分の霊魂の救いのために造られたということだけを見ていなければならない。従って、選ぶものは何であれ、私が創造された目的の助けとなるものでなければならない。また、目的のための手段にその目的を従わせ適応させるのではなく、手段をこそ目的に従属させるべきである。」(A,p.122)

・「選定しようとする事柄に対し、それを放棄するよりも受け入れるほうに、または、受け入れるよりも放棄するほうに傾きも執しもせず、ただ均衡のとれたはかりの指針のように真中に立ち、主なる神の栄光と賛美のため、また自分の救霊のために一層役立つと思う方にだけ従うべきである。」(A,p.128)


《活動における観想》

・「なにごとにも、たとえば人と話すこと、歩くこと、見ること、味わうこと、聞くこと、理解すること、その他、私たちのすべての行いにおいて、主の現存を探し求める修行を積むほうが(長い黙想に)まさっています。まことに、みいつ高き神が存在と能力と本質とによって、万事にとどまっておられるからです。」(B,p.99)

・「神がいかに被造物のうちに住んでおられるかを見る。つまり、物質の元素には存在を与えながら、植物には成長を、動物には感覚を、人間には思考力を与えながら住んでおられる。従って、私を存在させ、生きさせ、感じさせ、考えさせながら、この私のうちにも神が住んでおられる。」(A,p.162)

・「心を満たし満足させるのは、広い知識ではなく、ものを悟り、それを内的に味わうことである。」(A,p.32)

・「たしかに、ただ一つの状況のもとでしか主を楽しめないよりも、いろいろな仕事、さまざまな状況のもとで主を楽しめるほうが、より大きな徳であり、より大きな恵みであります。そのためには、私たちは慈愛深い神によくよく助けていただくようにしなければなりません。」(B,p.84)

・「すべての被造物を次々と考察し、どうしてそれらが私を生きながらえさせ、私の命を守り続けているのだろうかと、感動のあまり叫び声をあげる。」(A,p.70)

・「彼らが神の聖なる望みと一致して、すべてのことがらのうちに神を探し求め、できる限り被造物への愛から離れ、自己の愛を万物の主に向け、すべてのものごとのうちに神を、神のうちにすべてのものを愛するよう、しばしば勧めることが必要である。」(D,p.99)


《十字架上のキリスト》

・「十字架につけられたわが主キリストを目の前に想像し、創造主である主は人となり、永遠の命でありながらこの世で死を味わい、こうして、私の罪のために死なれることについて対話する。また同様に自らに目を向け、キリストのためにしてきたこと、キリストのためにしていること、キリストのためになすべきことを話す。」(A,p.67)

・「主がこの上なく貧しい状態の中で生まれ、飢え渇き、暑さや寒さ、辱めやさげすみの数々の労苦をしのばれたあげく、十字架上で死ぬこととなる。そして、このすべては、私のためである。」(A,p.100)

・「主がこの苦しみを受けておられるのは、ことごとく私の罪のためであるなどと考え、私は主のために何をなすべきか、いかなる苦しみを忍ぶべきかを考察する。」(A,p.139)


《聖イグナチオ》

・「父は、あることが神のより大いなる奉仕と隣人の善となり得ると思った場合、人の思惑にせよ立ちはだかる困難にせよ、そのことをする計画を絶対に止めなかった。」(E,p.227)

・「わが父はすべてにおいて理性的に物事に対処した。彼が非常に嫌ったのは、感情に駆られて、また、好機が到来したからと言って、行動を決めることであった。」(E,p.238)

・「父の行動において理性は首位を占め、感動や信心はいつも理性に従属するように見える。彼は万事においてこの基準に従い、他人にもこの基準に従うよう勧めている。人間と動物の間の相違はこの理性にあるのだと言う。この点は、父の最上の特徴、あるいは最も特徴的なものの一つである。」(E,p.248)

・「皆に例外なく優しかったが、誰とも親密ではなかったとも言えるであろう。」(E,p.88)

・「どのようなたぐいの悪口であれ、それを避けるという点では、周りの人をびっくりさせるほどに非の打ち所のない人間である。」(E,p.89)

・「父と交際のある人は、会の内外を問わず、他人の過失を弁護する父の受け取り方を、すでに諺のように口に出している。」(E,p.89)

・「父は、彼固有の威厳と分別と共に、修道者にあるべき陽気な態度と寛大さを見事に備えていた」(E,p.164)


《人間関係》

・「『私は主にお仕えしたいと熱望しております』というだけでなく、むしろ『私は主のはしためです。主への奉仕から離れるより、死ぬほうがましです』と、公然と恐れずに言うべきなのです。」(B,p.14)

・「一般に人の外面を見るのではなく、また被造物である人間を美しいとか優美であるとかみなさず、キリストの御血を浴びた者、神の似姿、聖霊の神殿などとして見なければならない。」(B,p.116)

・「純粋に神への奉仕だけを目指した人間的手段を適宜に用いることは、神とその恵みに希望の錨をしっかりと下ろしているかぎり、悪ではありません。」(B,p.92)

・「接する人々の好意を得られるように、真理と善徳と愛とにもとづく態度を示さなければならないが、同時に権威も失わないように心がけるべきである。そして、聖なる賢明さをもって、あらゆる人々に順応しなければならない。」(B,p.117)

・「よきキリスト信者は誰でも、相手の言葉を非難するよりも、よい方にとる態度をもっていなければならない。」(A,p.45)

・「無駄な言葉を言ってはならない。無駄とは、自分のためにも他人のためにもならず、ためになるつもりで話されたのでもないことを言う。」(A,p.58)

・「相手の顔にじっと目を留めるのは、会員と話している長上に限って許したが、一般の会員の場合、相手が長上であろうと、一般の会員同士であろうと、会話相手の胸までしか目を上げないようにと指示していた。」(E,p.157)

・「彼が会員でない人の無駄話をいかに忍耐強く聞き、会員からも冗長な話、はしょることのできる話を聞き、その後、いかにしてその話に自分の話を合わせるかということも、注目に値する点である。結局明らかに彼は、相手の話とは別のことを考えていたように見え、その話を何らかの霊的な事柄に関連させ、結び付けようとしていた。」(E,p.172)

・「父には忍耐できない事柄と話し方もあった。それは、法的条項や法令を制定するような調子で、相手があまりにも肯定的に、断定的に話し、『疑いなくこのこととあのことをすべきだ』、『その問題なら、解決の方法はこれしかない』、『内実は、これだけだ』などといった物言いをする時であった。…こうした話し方をする人を『法令家』と呼び、先に私が言ったごとく、厳しく非難した。」(E,p.172)

・「父は会員の名声のことなら、会員でない人の前だけでなく、家の他の人の前でも会員の信望を支えようと努める。そうであるから、会員について取りざたするとき、本人のよい点だけを話している。」(E,p.204)

・「父は何回も、さまざまな方法をもって、そそっかしく話をしないように、前もって吟味した言葉だけを話すようにと言いつけてきた。」(E,p.238)

・「私たちに賜ったよい悟りを敵が水増しするか減らすかするとき、私たちは浅瀬を渡る人のように、他の人びとを前進させるために探りを入れながら歩かなければなりません。よい通路なり道なりがあるとか、よい見通しがつくなら話を進め、相手の気持ちが乱れていて、親切な言葉もつまずきとなりそうなら、口を慎み、話すのにもっとも適した時期を待つべきです。」(B,p.19)

・「敵なる悪魔が善良な魂に対してもっぱら悪のために用いる手口を、相手の人々に対してもっぱら善のために借用すべきである。すなわち、敵は相手の戸口からしのび入って自分の戸口から出てくるのである。…同様にわたしたちも、善をねらってではあるが、相手の悪いところは大目にみて見ぬふりをし、よいところは賞賛したり、賛成したりするとよい。こうして相手の好意を勝ち得ればしめたもので、事をよい方向に運びやすくなる。」(B,p.30)

・「お世辞にみえるような言葉を言うべきかについて。ここで総会長は驚くようなことを私に言われました。つまり、会話に際しては、敵なる悪魔が人を悪に引きずり込もうとするとき使う手口を取り入れるべきだと言われたのです。すなわち、敵はまず悪をそそのかそうとする人のやり方に取り入り、ついには自分の思うつぼにはめます。このように、会話している相手の人の傾きに自分を合わせ、主のみまえで、まったく順応しながら、最後には相手の人のためになる善に導くことができるでしょう。

また次に師父は、進歩の見込みのない人にわずらわされないためには、会員はその人に地獄とか審判とか、その他これに類したことを強く言い放ったほうがよい、とも言われました。そうすれば、その人はもう二度と現れてこないでしょうし、それでもなお訪ねてくるとすれば、主の招きを感じたからと思うべきでしょう。」(B,p.105)

・「本会の生活様式が求める隣人との交際のために、一般に外面的な容姿・体格が正常であることを望んでおられます。それで、容姿の整っていない人は、その容姿を補ってあまりあるほど、神から希有な賜物をいただいていなければ入会を許可されません。」(B,p.109)

・「すべての人々と交際することはできないので、より大きな成果の期待される人々と接するべきである。すなわち、使徒となる適性のある人々、たとえば、もっとも困っている人々、大きな権威を持つ人、学者、財産家とか、その他一般に、援助を受けたあと、神の栄光のために他の人々を援助できる見込みのある人々でなければならない。」(B,p.116)

・「他人の名誉を傷つけたり陰口を言ったりしてはならない。なぜかというと、公に知られていない大罪を暴くことは大罪に、小罪を暴くことは小罪になり、欠点について語る時、自分にも欠点があることを示すからである。」(A,p.59)

・「会員以外の学生との会話はただ、すべてにおいて神のより大いなる栄光に役立つよう、勉強に関することか、霊的生活に関することに限る。」(D,p.117)

・「まず第一は、誠実さとキリスト的な善徳のよい模範であり、接する人びとに、ことばよりも善良な行いをとおしてよい影響を与えるよう意を用いることである。

 同様に、隣人への助けとなるのは、主なる神の前で持つ望みと、全教会、とくにその共通善のためにいっそう重要な人びとのため、依頼されると否とにかかわらず、友人、恩人、また亡くなった友人、恩人のために祈ることである。」(D,p.198)

・「神は創造主として与える自然的なものを通して、また恵みの源として与える自然的なものを通して賛美されることを望んでおられる。したがって人間的な手段、あるいは人間が習得できる手段、とく確かな根拠を持つ堅固な説教、また説教や講義を通してそれを人びとに伝える方法、さらには、人びととの接し方について意を用いることが必要なのである。」(D,p.250)


《信仰生活》

・「不節制を取り除くために極めて役立つことは、昼食か夕食のあと、または、食欲を感じない他の時に、次の昼食あるいは夕食のために食事の適当な分量を自分で決め、毎日それを繰り返すことである。」(A,p.150)

・「わが父は、神の奉仕に関する霊的な事柄については、私たち皆が、信心と内的な好みに導かれて行動することを強く望んでいた。」(E,p.150)

・「祈りの道に父を向上させたのは、晩課とミサのようなもの、つまり宗教音楽と賛美歌であった。」(E,p.155)

・「霊的な事柄に関しては、自分を基準に他人を導くのは最も大きな誤りだ。」(E,p.209)

・「私も以前には、断食や大・小斎や日常の食事も節することをたいへん賞賛していましたし、しばらくこれを喜んで行っていましたが、もうこれからは賞賛しないつもりです。それは、このような断食と節食をつづけていますと、胃がよく働かなくなってしまい、肉類その他、人体に滋養となるものを摂っても、なかには消化できないものが出てくることがわかったためです。…まことに私たちは、肉体が魂に従い、これを助ける限り、肉体をいとおしみ愛さなければなりませんし、また魂は、このように肉体に助けられ従われてこそ、主なる創造主に賛美をささげるのに、よりよく備えられるものだからです。」(B,p.84)

・「特に警戒すべきことは、心がすっかり食事に没頭してしまい、食欲に駆られたまま食事をすることである。むしろ、食べ方にも食事の分量にも、自制できる人でなければならない。」(A,p.149)

・「ロザリオの祈りに関しては、そこに含まれている奥義をどのように考察し、黙想するかについて教え、彼らがいっそう深く心を集中し、信心をもってこの祈りを唱えることができるようにすることが必要である。さらに、字が読める者で聖務日課を唱えるよりもロザリオを唱えるほうが進歩に役立つ場合は、すでに述べたように、いっそう役立つことに代えることができる。」(D,p.116)

・「隣人の霊魂を助けるために従事する仕事は、極めて重要であり、この会の基本精神にふさわしいものであるが、同時にそれは多忙を極めるものである。また会員の住所は一定せず、ここかしこと移り変わることが多いので、この会では、定期的に聖務日課を共唱したり、ミサや聖務日課を歌ったりすることはしない。」(D,p.178)


《勉強》

・「ことに学問への大きな傾きを持っている人々よりも、従順によって解き明かされた主なる神のみ旨を行うこと以外にどんな特別な愛着もいだかない人々を、学問に当たらせることを好んでおられます。」(B,p.111)

・「あなたがたは勉強にいそしんでいる今、隣人に役立っていないと思ってはなりません。なぜなら、『あなたは自分の魂をいたわり、神を喜ばせなさい』とあるように、正しい愛の求めるままに、自分自身の進歩に役立つことをしながら、さらに神の誉れと栄光のためにいろいろな方法で隣人に奉仕しているからです。

第一の方法は、現在の労苦と、それを余すところなく隣人へのよい影響のためにささげ尽くそうとする意向とによるものです。兵士が近づく実践に備えて武器を準備し、演習するとき、この仕事が主君への奉仕にならないとは言えません。

第二の方法は、あなた方自身がきわめて徳の高い善良な人となることです。このようにしてこそ、あなた方は隣人を自分と似た者にするのにふさわしくなれるでしょう。

隣人を助ける第三の方法は、よい生活の模範です。

隣人を助ける第四の方法は、はるか遠くまで達するもので、聖なる望みと祈りによるものです。」(B, 完徳の手紙・pp.55-57)

・「(修学修士の)目的は、主なる神に奉仕し、神のより大きな栄光のために、また隣人を援助するために、学問を修めることに他なりません。そして、この目的達成には全人間をあげてかからなければならないのです。それだけに、もし長時間にわたって祈りに没頭すれば、勉強に全力を傾注して励むことはできなくなるでしょう。したがって、司祭でない修学修士は、心を不安にさせる動揺、あるいは神の強い呼びかけを感じていない場合には、ミサ以外に一時間の祈りをすれば十分です。…司祭の修学修士は、聖務日課とミサと糾明だけで十分ですが、神の強い呼びかけを感じるなら、さらに半時間を加えても結構です。」(B,p.97)

・「第一に師父は、目下の者が学問研究に従事するためか、その他の仕事で人助けをするための能力と自然的適性をもち、何か役立つことを望まれ、そのどちらかの才能があることを希望されます。そして、学問の才能がー十分とまでいかなくともーいくらかありながら、人々に対する奉仕の仕事への傾向も適正もない人よりも、学問には向かなくても、人々へ奉仕などの仕事にすぐれる見込みのある人のほうを入会させる方針をとっておられます。」(B,p.109)

・「ある仕事に従事している会員が、その仕事への適性を持ってはいても、仕事が彼に適さない場合には、師父は、かれらをその仕事から引き離すという方法をとっておられます。修徳と学問とが両立しえないときには、学問に上達するよりも徳に進歩するほうがさらに重要であると思われるからです。このような理由で、師父は、勉学が霊的に役立たず、心の平和を保てない人々に勉学を中止させられたのです。」(B,p.113)

・「エルサレムにとどまることが神のみ旨でないとわかった後、今度は何をすべきかを絶えず考え続けた。やがて人びとの霊魂を助けるには、しばらくの間勉強をしたらよいと思った。」(C,p.77)

・「学識を得るための場所としては学院があり、家は学識を得た者がそれを実際に用いる場所、あるいは、これから得ようとする者がその基礎として謙遜と善徳を自己のものとする場所である。」(D,p.99)

・「この会が目標として直接目指しているのは、会員自身および隣人の霊魂がつくられた究極目的に達するのを助けることであるが、そのためには生活の模範を示すとともに学識があり、それを提示する方法を知ることも必要である。それゆえ、克己の精神と必要な善徳に進歩するためにふさわしい基礎が置かれたと見られたならば、いっそうよく創造主なる神を知り、仕えることができるため、知識とその用い方についての素養を深めるよう配慮することが必要である。」(D,p.105)

・「試練期を終え、勉学に熱中するあいだは、勉学に熱中する結果、真実の善徳と修道生活への愛が弱まらないよう配慮するとともに、克己の業、祈り、長い時間の黙想などが、あまりにも大きな場を占めることがないよう配慮していなければならない。神に仕えるという純粋な意向によって専心する勉学は、ある意味でひとりの人間のすべての力を要求するものであり、勉学の期間にあって、それは主なる神を喜ばせるという点で、先に述べた業に劣るものではなく、むしろ優れたものである。」(D,p.115)

・「学生はなによりもまず霊魂の清さ、勉学の意向の正しさを保ち、勉学に際しては神の栄光と人びとの霊魂の益だけを求めていることが必要である。また、この目的のために進歩することをたびたび祈りの中で願っていなければならない。」(D,p.119)

・「彼らは、固い決意をもって、学生としての本来の姿を守ることが必要であり、学院においては、先に述べた意向で勉学すること以上に主なる神を喜ばせるものはなく、またたとえ学んだことを用いる機会がなくても、愛徳と従順から勉学にふさわしい努力を払っていること自身、至高の神の御稜威のまえにいさおの高い業であることを確信していることが必要である。」(D,p.119)

・「勉学から心をそらせるもの、すなわち、度を超したり、気まぐれになされたりする信心や克己の業から生じる妨げ、また、家の中の務めや家の外で行っている人びととの交際、告白その他、隣人の世話や働きから生じる妨げからは、主において許される限り離れることが必要である。」(D,p.120)

・「学生にとりいっそうよい助けとなるため、同じ程度の者を集め、聖なる競争心で互いの刺激となるように計らうのが好ましい。」(D,p.124)

・「これらの学位は、謙遜さを失うことなく、神の栄光となるために隣人の

助けとなることだけを目指して受け取ることが必要である。」(D,p.126)

・「この会およびそこで行われる勉学が目指しているのは、隣人が神を知り、愛するようになり、霊魂の救いに至るのを助けることである。」(D,p.139)

・「インド人のような偉大な民族や、主要な都市、大学のように、私たちの助けを受けて、のちに他の者を助ける働き手となるような人びとが集まっている場所への助力を優先させるべきである。」(D,p.192)


《涙の賜物》

・「これらの賜物の中に、涙の溢れ、もしくは涙のしずくがあります。この賜物である涙は、第一に自分の罪と他の人々の罪のために流されるもの、第二に、主キリストの地上のご生涯と復活後の諸神秘を思って流されるもの、第三に、神の至聖三位を思い、愛するために流されるものです。」(B,p.85)

・「まず、おん母におん父とおん子ののみまえでわたくしのために力を貸してくださるよう祈り、次におん子に向かっておん父のみもとでおん母と共に助けてくださるよう祈った。すると、わたくしはおん父に近づいて行く、いや近寄せられていることを自分のうちに感じた。このようにおん父へ近づいて行く間にも髪の毛がよだち、からだ中何か非常に強い熱のようなときめきを感じ、その結果、たいへん深い信心を覚え、涙を流した。」(C,p.193)

・「この奉献の少し後で、聖霊のミサを立てるために、しばらくの間、聖霊と対話しながら同じく信心を感じ、涙を流した。その時、濃厚な光、あるいは燃える炎の色をした異常な様態で聖霊を見たか、あるいは感じたと思う。それですでに決めたことについて確信を持つ。」(C,p.195)

・「ひきつづき多くの涙を流し、霊的衝動を覚え、内的おえつが起こった。また、血管や他の身体の部分の動きをはっきり感じるように思われた。そこで、非常に深い愛をこめて、まず、聖三位、ならびに聖母とおん子、ついで天使、太祖、使徒、弟子たち、諸聖人、諸聖女、ついには、力を貸してくださったすべての方々に感謝しながら、確かめぬいた奉献を天堂の諸聖人の前で、至聖三位一体にささげた。」(C,p.205)

・「祭服を着てから、イエズスのみ名が、霊魂に非常に深く刻まれたことを感じ、将来のため固く確認され、力が与えられ、新たな涙とすすり泣きへの衝動が起こった。」(C,p.210)

・「涙は出なかったが、しかし、多くの涙にあふれるときよりも、もっと喜ばしく感じていた。そして、たとえ知的照らしや出現がなく、涙がわいてこなくとも、わが主なる神がなんらかの方法でわたしの歩むべき道を示そうとしておられるのであると思った。」(C,p.229)


《アカタミエント》

・〈アカタミエントは、イグナチオを、創造主に対する被造物の地位に、正しくとどまらせる。それは、神の無限の偉大さを前にして、自己の小ささと有限とを表明することである(日記50)。それは、被造物、しかも「三位一体のみ名を呼ぶにも値せず」(日記 64)、過失を犯したとき、主の訪問を受けるにも値しない(日記 185)罪人たる被造物の態度である。〉(C,p.187,ハイメ・カスタニエダ神父による解説)

・「ミサの前も、部屋および聖堂にいるときにも、また、ミサの間にも、たびたびそのアカタミエントの精神が起こり、涙がわき出たが、アカタミエントに注意するためにさっそく涙を押さえた。このアカタミエントの精神は、わたくしから出るものではなく、わたくしのものでもないように思えたが、絶えず信心を励まし、涙を増した。これらすべてのことからみて先日来、主がわたくしに特別な道を見せてくださるであろうと感じたものは、まさにこれであると確信した。」(C,p.234)

・「ミサの前、部屋で、アカタミエントと敬意と謙そんの精神をいただけるように祈った。等しく神への奉仕となるならば、霊的訪れや涙の恵みは与えられないように祈った。あるいは、それが与えられる場合にも自己の望みを満たすためではなく、その恵みや訪れを正しく味わえるようにと願った。」(C,p.235)

・「その後にいただいたすべての霊的訪れは、わたくしにアカタミエントの精神を感じさせるもととなった。」(C,p.235)

・「『神』、『主』などのみ名を唱えるたびに、そのみ名は驚嘆すべきアカタミエントと敬意のこもった謙そんの念とともに言い尽くせない方法で心の中に深くしみ込んだ。」(C,p.236)

・「ミサの間、多くの涙を流し、同時にたびたび円の形で神の実在を見、それから、おん父を見、そしてすべてはアカタミエントの精神に到達した。」(C,p.237)

・「謙そんと敬意とアカタミエントの精神は、恐れからではなく、愛からのものであるべきだと思った。この考えは深く心の中に入り、信頼をもって『愛のこもった謙そん、および敬意とアカタミエントの精神を与えてください』と祈った。」(C,p.238)

・「愛のこもった敬意やアカタミエントの精神を見出されず、そして、それを得ようと思うときには、自分の欠点を顧みて、恐れのこもったアカタミエントの精神を求めるべきである。」(C,p.241)

Posted by 枝人