働く人の意思決定のために

2019年7月14日

意識の究明への思い        宮野 亨 拝

ペトロが3回主イエスを知らいないと言い,イエスが振り向いてペトロを見つめたという聖書の文は,私の霊性の源です.
NJB ( New Jersalem Bible カトリックの神学者や修道者が使っている基本的聖書 ) では,Luke
22.60 Peter said, 'My friend, I do not know what you are talking about.’ At that instant, while he was still speaking, the cock crowed,
22.61 and the Lord turned and looked straight at Peter, and Peter remembered the Lord’s words when he had said to him, 'Before the cock crows today, you will have disowned me three times.’
22.62 And he went outside and wept bitterly.

ここで,the Lord turned and looked straight at Peterですが,
ご受難の苦しみの只中にいる主イエスはペトロの言葉が聞こえていて,わざわざペトロにだけ振り返えり,そして,しかも「まっすぐに」ペトロだけを見つめられました.
日本語訳では「まっすぐ」とは訳されていませんので,何より残念です.

また, the Lord turned で,首だけペトロに向けたのではなく,体をペトロに向けて,体全体でペトロを真っ直ぐに見ました.
福音書の記述で,首だけその人の方に向けたとは書かれていません.だから私達は,安心して,いつも the Lord turned してくださるとしか思っていないのです.

聖木曜日は,「寂しい夜」と海外では一般的に呼ばれ,日本では単調な曜日だけです.
本来は,全ての人が主イエスに体ごと背を向けて(turned),主イエスが孤独の寂しさを感じられた夜です.寂しい夜と日本でも呼称してもらいたいです.

私は初めての霊操で,この聖書の御言葉を祈って,主イエスの眼を見ました.
「この目は,私の創造主だ」と確信しました.

イエズス会士の祈りの一つに,
まっすぐペトロを見つめたように,いつも私を見つめて下さい.
というのがあります.

もともと私が20歳頃にカトリックに通い始めたのは,理由や根拠がわからずに,ただ「ゆるされたい」という衝動があったからです.
仏教系のお坊さんに相談したら,どの仏教でも「ゆるす」という言葉や概念はないので,一神教へ行きなさいと言われました.
そして受洗をしましたが,ゆるされたいという根源的な望みは満たされず,上記の霊操中に初めて満たされました.

ペトロが激しく泣いて変容していったのは,3回拒んだ罪を主イエスがゆるしたからでしょう.ペトロの改心の場面として語られています.

でも,私のセンティルした経験だと,改心の話は二の次です.
センティル:スペイン語:霊的五官で感じとる,いただいている内的知識で感じる という”感じる”という動詞,日本語の「感じる」では意味内容が表せない.

ゆるされる経験だけではなくて,ペトロは,神がペトロを創造された目的をセンティルしましたし,主イエスがその愛で彼を全て包み,喜びに溢れたさせた経験です.

後悔で泣くときも,私達は忘れてはいけないのは,
「涙は恵み」
という事実です.
泣いている人は恵みもいただいています.
後悔する涙は,恵みの涙でなければ,なんでしょう.

私の体験では,私は単に素焼きの空の壺のようなもので,三位一体の御交を愛するのも,愛をいただいたから愛せるだけです.この場面で,それを実感しました.
自分の力で愛しているのではありません.
目覚まし時計を使わなくなって20余年経ちます.明日の朝起きると想定するのは,自分で生きているという独善だと気づいたからです.朝起きると感謝して,今日もいただいたミッションをしなさいと言われている自覚があります.

ペトロを変容させるためにこの機会があったというプロセスは救い主のイメージが強い感じです.
ペトロは,「あなたはメシア」と信仰告白をしているからです.

私のセンティルでは,この場面でペトロは,「私を創造したのはこの方だ」という神の本質をセンティルしたはずです.
人はだれでも神の最高傑作ですから,ペトロのこの感じ方と同じ喜びをセンティルできます.

激しく泣いた wept bitterly だから,ペトロが自分で罪を後悔して泣いたような印象になりがちですが,これももう一つ前提があります.
かいしんは,日本語では4つ書けます.
改心,回心,悔心,開心です.

マザーテレサが,
「愛されるために
 自分と違ったものに
 なる必要はないのですよ。
 ありのままで愛されるためには、
 ただ心を開くだけでいいのです。」
と言っています.

ペトロは,開心の恵みをいただいたから,創造主である三位一体の御交を実感できたのです.
心を神に開かないで,悔い改めはできません.
悔い改めも自分の力でできません.神を愛する心も神からいただいているのと同じです.
日常的にも,ごめんなさいから始めた祈りで,愛されている感謝の感情が芽生えにくいのと同じです.

何故開心の恵みが悔い改めの前提となるのかは,とても大事な前提があるからです.
ペトロは自分も殺されるのではないかという恐怖心から主イエスを否定しました.
死にたくなかったし,拷問の苦しみから逃れたかった.愛が死に負けていました.

人は死にたくないという恐怖心があると三位一体の御交を拒みます.
会社や学校で評価が下がるという恐怖心は,愛を拒むきっかけになります.
イエスのご受難の時と同様に,今でも,主イエスに背を向けるように,恐怖心を使って,悪魔は仕向けます.
人は日常的に恐怖心を感じる環境にいます.日常生活は神を拒む場面に溢れています.
一方で,一刻も早く帰天して主に抱かれたいと願う人には,死は単に,隣の部屋へ移る程度のことでしかありません.

ペトロは,まだ,死の恐怖があったから,頑なでした.
まだ死が怖い程度の人間的な不自由さが主の愛を拘束し拒んでいました.ペトロはその程度でした.

主は,死の恐ろしさから開心できないペトロの心の壁を全て溶かし,主が創造したそのものの心だけにしました.
そして,尽きることのない愛の源泉をペトロの心に刻みました.
このプロセスは,全ての人間にも再現されます.

三位一体の御交を拒むのは,悪魔による攻撃でやられてしまった状態です.
沈黙の拘束と愛されている実感を消し去る攻撃です.
それは,死の恐怖で必ずできると悪魔は攻撃をします.

悪魔が人類が寂しい夜を主イエスにしてしまっても,
主イエスは,人を復活させる恵みを,開心によって,ペトロの心に刻みました.
寂しい夜に,主イエスに背を向けた人に「愛している」という恵みを注ぎ込んでいます.
人間の復活の序章をペトロを使って,私達に見せてくださったというのが,私の実感です.
私はペトロと同じ様に,復活します.
神を否定するのは,霊的な死で,地獄にいる状態です.
寂しい夜は,私達が主イエスに背を向けた状態です.
主はペトロに愛を注いで,救いました.同じ救いが創造された全ての人間に与えられています.

ここで罪の三段階 ①<②<③ を私が心に刻んだ失敗を書きます.
①盗む等の行いの罪,②イエスなどいないと勘違いする罪,③神に愛される資格などないと想う罪.
一番重い罪は,どれかと言うと,③愛してもらえる資格などないと思いこむ罪です.一般的に「根源的自己否定」と言われる罪です.

私はかつて,告解でも①ばかりゆるしを願い,①を乗り越えるのが,神への賛美だと,何故か決めつけていました.できたことを神に捧げて,本当に辛くゆるしをねがうことは,神に隠し見せずにいました.私は実は➂の状態でした.この③罪の状態でも,悪魔は,日常的にある①行いの罪に関心を向けさせるので,③根源的な罪に気づかないように仕向けます.とても巧妙な仕掛けをしています.悪魔の思う壺にハマっているとは,このことです.
ペトロの嘘を見つめ変容のプロセスを祈り賛美するのは,①行いの罪を見つめることになりやすく,②はできても,仲々③の開心になりません.

だから私は常に,③だけを祈り見つめればよいと想い,祈っています.

神の愛の陽だまりにきて,愛という太陽の暖かさで,日向ぼっこをして,何も思わず,暖かさや,静けさや,穏やかさを,感じるのが,意識の究明です.
日向ぼっこをしながら,今日は神に背を向けたとか,制御できない怒りを感じたとか,心の動きを振り返ります.何も思わず,暖かさだけ味わって過ごしても構いません.

例えば,ありがとう,ごめんなさい,お願いしますという順番で祈る時,ごめんなさいから祈り始めると,ありがとうという神への感謝の心が湧き上がらなくなります.どうも皆さんも同じです.
冷たさや,騒がしさとか,二人の自分のもうひとりの方がひどい体感を思い起こさせるからでしょう.

そのときにも愛されているという真実を生きている自分に,愛の太陽が降り注いでいると,センティル&グスタします.
意識の究明は③罪を祈るカトリック的な有効手段ですし,とても人間的な祈りで,誰でも霊的五感を埋め込まれていますから,誰でもセンティル&グスタできます.

意識の究明はとても簡素で容易な祈りです.だから毎日継続できます.

以上

Posted by 枝人